paul okubo biography

高校時代
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1973.01.21目黒福祉センター

Grand Funk RailroadやBeatlesの曲をやっていた

バンド名「サウスブローカーズ」

私は高校時代ドラマーだった

いまだに忘年会を開きメンバーと会っている

これはリハの時の写真で私服です
大学時代
1975.04.19目黒区民センター→→→
ディープパープルやブラックサバスなどの曲をやった。
バンド名「マザーグース」

大学1年の時、私は専修大学のリリーアイランダースという軽音楽研究会に所属していたが、実際は明治学院大学のこのバンドでドラムを叩いていた。
ロン毛にロンブー、すごいですねぇ。今よりみんな9センチ位背が高かったですね

このドラムセットは、神田にあるフォーク酒場「昭和」(最近テレビ雑誌でも中高年親父バンドで報道されている)の開店から2年間お店にあり活躍したが、老朽化のため引退した。ただしシンバル類はまだ使われている。
写真左
キーボード  Oさん
ボーカル   Aくん
リードギター Iくん
 
写真上
ドラムス   Paul
ベース    Yくん

IくんYくんは音楽関係に進み
OさんAくんは国家資格を取り社会で活躍している
大学時代2
大学2年からは国家資格を取るべく音楽関係を休止したがその前後で「ココナッツトースト」というバンドにもいた。
このバンドでは主にフォークロック調のオリジナル曲を演奏していて、高校のときは文化放送セイヤングの高校勝ち抜きバンド合戦に出場。またヤマハのポプコンにも出たが予選落ち。このときのグランプリは小坂明子だった。



今までのバンド名も サウスとかココナッツとかやはり南国を連想させる名前だったですねぇ

1995年この三人でハワイ旅行した
ノースショアの写真も何故か並び順が一緒
@ハワイアンのきっかけは
社会人になってからは音楽活動から遠ざかっていたが、ツヤリンと言うフラダンサーとの出会いでハワイアンの魅力に引き込まれそのフラバックのため、昔とった杵柄とばかりにハワイアンバンドを結成することとなる。
ハードロックとは違いこれなら高齢になっても続けられるいい趣味と思った。
A何でスチールギターか
ハワイアンバンドというとすぐスチールギターを連想し、早速スチールギターを買い求めに走ったが、なかなかなかった。しかも高価らしい。
バンド編成を考えても普通はギター2、ベース、ドラムの4人。ハワイアンはウクレレ、ギター、ベース、そしてスチール。これはドラムがスチールに変更するしかないと考えたのである。
でも今こうして考えるとリードギターがスチールでドラムの私はウクレレが順当だったかもしれない。
まぁちょっとした勘違いと、スチールのあの音色に魅せられてスチールを手に取ることとなるのである。

ある日秋葉原のラオックス音楽館にFenderJapanの新品のスチールギターが置いてあったのですぐに買い求めた。6弦と8弦があったがギターでなじみのある6弦を買い求めた。2000年秋?のことである
B先生探し
次に6弦でもギターとチューニングが違うので弾き方が分からない、入門書を探してるうちにお茶の水の下倉楽器?で小林潔著のスチールギターメソッドと言う本が3巻とビデオの教則本があったので全部買ってしまった。(この3巻は現在販売されておらず実に貴重なものでありお弟子さんの中でもこの3巻そろって持っている人は少ないと言う。)しかしこれがまた難しい。見よう見まねでやっていたが、やはり先生を探さなければと思っている時に、2003年3月19日、例のきっかけになったフラダンサーにハワイアンライブに誘われ赤坂のSTAGE-1へ行った。そこでそこの日大バンドのスチールギターOさんに相談すると、この先生のところへ行きなさいと名刺を渡された。
その先生がなんと小林潔先生だったのである。すぐに連絡を取り4月から月2回ペースでレッスンを受けることとなった。
Cレッスン
さあレッスン初日。何か弾いてみなさいと言われても1曲も満足に弾けないが、ビヨーンザ リーフと弾いたらすぐ「わかった、まっさらだから教えがいがある」と言うようなことを言われた様な記憶がある。
兎に角弾けないわけだから癖も何もない。

そんな訳でレッスンは2003年4月からスタートし冬の時期は本業が忙しいのでお休みしたが月2回のペースでレッスンに伺った。これ以降毎日のようにスチールに触ることとなる。
47歳でスタートして50歳には人前で弾けるよう頑張ろうと心に誓ったのでした。
Dもう一つのレッスン
レッスンが始まって2,3ヶ月して千葉のSiさんに誘われて高田馬場のロンサムカフェのライブに行った時に、隣りの高貴な女性のTさんからカノウプスの神谷さんのところでも丁寧にレッスンしてくれるよと言う話を聞き、もう早く上手くなりたい一心で神谷さんのところにも伺った。
ナッシュビル仕込のピッキングや左右手の形を本当に丁寧に教えてもらった。左手のスラントの形はもとより、特に右手の小指は曲げたほうがピッキングが強くなるという指導は今でも忘れていない。
このことがカノウプスのトリプルとダブルを買ったきっかけになっている。
そのTさんに北千住で2009年お会いする機会があり、ジェリーバードの書いた貴重な教則本やDVDを頂きました。ありがとうございます。
Eメレフラ
その後はハワイアンバンドモアナウィンズのメレフラの活動が2005年から私の能力を超えていて、フラの人に渡される音源で1ステージ30曲を超える曲数(ほとんどが初めて聞く曲)を覚えること、そしてそのコピーが忙しくなり、スチールソロを弾くようなレッスンからは遠ざかってしまった。そんな訳で真面目に通ってた小林先生のスチールレッスンも2年間でストップすることとなってしまった。2008年6/21にぎわい座では7時間84曲という過酷と思えるメレフラマラソンを完走、訳の分からない自信を付けた。

フラは歌がないと踊れないらしい。当然スチールのソロはフラにはどちらかと言えばお邪魔な存在なのである。
しかしこのコピーによりいろいろなバンプのパターンを覚えることが出来た。スチールの長所はどのキーでも同じ動きでフレットをずらすだけで出来てしまうことだ。

レパートリーも増えてきたが、一つの曲でもさまざまなミュージシャンが演奏している為ダンサーの選ぶ曲もさまざまである。フラバックではそのいろんなバージョンに対応しなければならないところに苦労がある。
F今
モアナウィンズを中心にいろんな方とのとのセッションにも参加している。
 2007年夏からはライオン先生の門下生の方々と'Olu'Olu(オルオル)というバンドを組み目黒雅叙園にも出演することになりスチールのソロを何曲かやらなければならなくなった。と同時にフラダンサーの着替えの合間にスチール演奏をする機会が増えてきた。

ここでライオン先生のレッスンの時のテープを引っ張り出し、バンドとして出来そうな曲の譜面を作り、ようやくスチールソロが日の目を見ることとなった。苦節?年。
ここでようやく気が付いた。スチールソロがなかったのはフラのせいでなく単にスチールの練習不足だったのである

フラバックばかりやってると本当にスチールソロが出来ない。いろんな所(お店)でスチール弾いてください言われても弾けなかった。
が、ようやく数曲弾けるようになった。最近ではバックの演奏者の譜面もバーとビックと一緒に持ち歩くようになった。
F2012年9月赤坂Bbで開催されたHSGA(hawaiian steel guitar association)第1回Japan Conventionに参加。20分の持ち時間を何とか無事に演奏終了し、スチールギター10年の区切りをつけたということで、新たな挑戦をすることとなる。
サンバ隊で太鼓叩くぞ、浅草のサンバカーニバル出るぞ。11月よりサンバ隊のレッスンに通っている。
G目黒
今これを書いてて気が付いたのですが、写真のコンサートは2回とも目黒。ライオン先生のスタジオも目黒。そして雅叙園も目黒。雅叙園の出演に声を掛けていただいたSuさんも目黒、千葉のSiさんの職場も目黒。
何か縁がありそうです。

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